アラビア

アラビア黄金時代に活躍したデザイナー6人

arabia,アラビア工場

 

今も世界中から愛されているアラビア社。

アラビア社が設立されてから現代に至るまでの歴史と、

その黄金時代といわれる時代に活躍したデザイナーたちをまとめてみました。

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アラビアの歴史

アラビアの設立

アラビア社の歴史はフィンランドの歴史でもあります。

アラビア社はスウェーデンの陶器メーカー、ロールストランド社の子会社として、

1873年にフィンランドに設立されました。

12~19世紀にわたって、フィンランドはスウェーデンに帰属していましたが、

アラビア設立当時のフィンランドはロシアの統制下にありました。

スウェーデンはソ連に近いフィンランドを足掛かりにロシア市場への進出を考えていたようです。

設立当初の10年ほどは、白地のシンプルなものを製造していました。

絵付けなどもロールストランドからやってきた絵付師が行っており、本当の意味でのロールストランドの子会社でした。

 

しかし、ヨーロッパ全体でそれぞれの民族のアイデンティティーとしてのアートが見直され始めました。

その影響もあり、アラビア社も独自の表現への追及が始まります。

1916年、第一次世界大戦の影響もあり、アラビア社はロールストランド社の子会社ではなく、

一陶器メーカーとして歩み始めます。

初代社長に就任したカール・グスタフ・ヘルリッツは製造過程や、労働環境を見直し、工場を大きくしていきました。

1922年には自社のラボラトリーが設立され、そこで積み重ねられた知識や技術は現代の制作にも生かされています。

1929年、アラビア社は「Vackrare Vardagsvara(美しい日常)」をスローガンに掲げます。

この言葉は現代までアラビア社のものづくりに影響を与え続けています。

そしてアラビア黄金時代へつながる様々なデザインや、装飾がうまれていきます。

一方この言葉の生まれた背景には、フィンランドのつらい歴史があります。

1917年のフィンランド独立宣言をきっかけに起こった内戦により市民は疲弊し、

生活は窮困を極めました。

第二次世界大戦ではナチスドイツについたことにより敗戦国となり、

ロシアから課された多額の賠償金の返金に苦しめられます。

そんな中でフィンランドを代表するメーカーに成長していたアラビアは、

美しい日常を、という言葉と美しい陶器で、人々を励まし続けました。

1920~30年代は技術も発展し、デザインも華やかなアラビアの黄金時代の始まりでもありました。

アート部門の設立と国際舞台での成功

何度かこのブログでも紹介しているアラビアアート部門(アートデパートメント)が設立されたのが

1932年です。これにより、アラビアの独自路線が拡大していきます。

大量生産や製造工程の簡略化が進む中で、代表取締役のカール・グスタフ・ヘルリッツは、

デザイナーたちに自由に仕事をさせました。彼の芸術性を重んじる考え方は、アラビア社のその後に大きく影響しました。

ビルゲル・カイピアイネンが雇われたのもこの頃です。

アラビア社は1937年のパリ万博で出品した作品が金賞をとるなど、

世界的にもその実力が認められていきました。

ちなみに下記の写真は「パンジーの海」というカイピアイネンの作品で、

1967年のモントリオール万博のために制作された長さ9メートル、高さ4.5メートルという巨大な作品です。

‘Sea of violets’ (9 x 45,5 metres, World Exhibition, Montreal, 1967) and the artist

参照元:フィンランド人のブログより

第二次世界大戦

1940年代に入ってもアラビア社は成長を続け、

戦時下においても工場を稼働させ続けました。

そしてそれは輸出により外貨を獲得し、国益にもつながったとされています。

戦時中、そして敗戦国となった戦後の暗い時代においても

「Vackrare Vardagsvara(美しい日常)」という言葉は

フィンランドを支えました。

人々は、そんな時代だからこそ華やかなもの、美しいデザインを好み、

多くのデザインが生まれました。

そして、カイフランクがアラビア社に入社し、アラビア黄金時代と言われる時代が始まりました。

彼自身が多くの代表作を生み出したのはもちろん、ウラ・プロコぺやライヤ・ウォシッキネンなど

若くて優秀なデザイナーを積極的に採用し、アラビア黄金時代の立役者となりました。

1950年代のデザインには、分野が異なる会社同士でも、刺激を与えあい、

高めあうような風潮がありました。

それはまさに傑作が生み出された黄金時代といえるでしょう。

 

現在のアラビア社

1990年にittaraに買収されていますが、アラビアブランドとして今も美しい日常を提供し続けています。

現在のアラビアも、当時と変わらないデザイン性の高さと、機能性を備え、多くの人に愛されています。

開業した140年前と同じ場所に、工場、美術館、アウトレットショップを構え、新しいデザインを生み出し続けています。

アラビア,開業時の工場,昔,工場アラビア社伝説のデザイナーたち

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Birger Kaipiainen/ビルゲル・カイピアイネン(1915-1988)

ヘルシンキ美術大学で陶芸を学んだカイピアイネンは、卒業と同時にその若き才能を見込まれ

アラビア社のアートデパートメントのメンバーとして活動を開始します。

しかし、彼は入社翌年にポリオを患い、両足が不自由になってしまします。

そのため当時主流だった足踏みのろくろが使えず、フォルムデザインは諦めざるをえませんでした。

彼の才能はデコレーションにつぎ込まれていきます。

パラティッシ,カイピアイネン

彼の最も有名な作品はやはりパラティッシュではないでしょうか。

何度も復刻製造され、アラビアの食器と言われてこれが一番初めに思いつく人も多いのではないでしょうか。

カイピアイネンにとってもパラティッシュは、彼の名をデザイナーとして世に広めた出世作といえます。

1969年にデザインされ、人気を博すものの、74年にはオイルショックの影響で生産終了となります。

しかし、1988年から再び生産が始まり、現在まで人気を誇っています。

 

私はカイピアイネンはアラビア社のイメージとは少し違うように感じています。

アラビアの食器たちは華やかで、それに加えて機能的で、それがアラビア社全体のイメージだし、

それこそがアラビアの一番の魅力だと思います。

しかし、カイピアイネンの作品はどこか寂しげで、ものすごく美しい。

カイフランクとともにアラビア社の黄金時代を築いた立役者だったことは間違いありませんが、

カイはリーダーシップを発揮し若いデザイナーたちとともに、多くの作品を残しました。

一方、カイピアイネンの作品は共同制作されたものはほとんどありません。

カイピアイネンはデザイナーである前にアーティストでした。

彼自身も本業はアーティストだと言っていたようです。

その言葉通り、彼はアーティストとしても活躍の場を広め、彼のアートピースなどは

現在かなりの高値で取引されています。

Kaj Frank/カイ・フランク(1911-1988)

北欧を代表する人物として名を知られた有名デザイナーです。

キルタという革命的な食器をもたらした彼は、本来セラミックが専門ではなく

テキスタイルのプリントデザイナーとして働いていました。

1944年、当時のアートデパートメントの所長エクホルムが彼の才能を見出し、アラビア社へ入社。

1946年にはエクホルムの後任として、アート・ディレクターに抜擢されます。

彼はリーダーシップを発揮し、自らデザインに打ち込む一方で、

ウラ・プロコペ、ライヤ・ウオシッキネン、カーリナ・アホなどの有望な若手デザイナーを

次々とチームに抜擢し、素晴らしいチームワークで常に新しく革命的なものを

作り続けました。

 

そんな中、彼の生み出した傑作が言わずと知れた「キルタ」です。

「ディナーセットを玉砕せよ」のスローガンのもと1940年代から開発され、

1953年についに商品化が実現しました。

当時の食器は12セットで揃えて購入するのが習慣でした。

しかし、このキルタシリーズは、足りないものを買い足して、古い食器と組み合わせるという

当時の概念を覆す、革命的な考えのもと発売されました。

 

franck_kilta12

敗戦後のフィンランドは経済的にとても苦しく、合理性や経済性が優先されました。

そんな時代背景のもと、キルタは小さなキッチンにも収納できるよう、コンパクトに重ねられるように

設計されています。

カイは食器は飾るためでも眺めるためでもなく、人の役に立つためのものだと考えました。

そのデザインは無駄なものが一切そぎ落とされ、普遍的なフォルムだといわれ、

当時、キルタは革命的だと国内外のメディアでも取り上げられたそうです。

キルタは当時のファイアンスからストーンウェアへと素材をかえ、

2005年からはオイヴァ・トイッカ、ヘイッキ・オルヴィラの手が加わり、

ティーマとして今なお人気を誇っています。

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Esteri Tomula/エストリ・トムラ(1920-1998)

アラビア,エルサ,elsa

 

ヘルシンキ育ちのエステリは、1940年にヘルシンキ美術工芸大学へ進学し、陶器の絵付けの勉強を始めました。

第二次世界大戦により一時は勉強を中断するも、1947年になんとか大学を卒業します。

同年に、アラビア社へ装飾デザイナーとして入社、彼女のデザイナーとしての華々しいキャリアをスタートさせます。

1950年代は主に手描きをデザインしました。

アラビアの手描きの食器には絵付師のサインが入れられていますが、当時彼女は自ら筆をとり、

絵付けをしたこともあったようです。

当時のサインをよくみると彼女自身のサインがされているかもしれません。

1950年代後半からはデザインのアウト部分はプリントし、それに手書きで色を重ねる手法をとり、

彼女独特の世界観がさらに広がっていきます。

1960年代にはいるとアラビア社に最新の機会が導入され、大半がプリントされるようになりました。

手描きでなくなってしまったことは残念と思われる方もいるかもしれませんが、

機械プリントだからこそ描けた彼女のデザインも非常に多く、細い線で繊細に描かれた彼女の作品は

今なお人気です。

1984年に退職するまでデザインを続けたエステリですが、その数は150を超えています。

フォルムデザインはほとんど手を出さず、もっぱらデコレーションのみに力を注いだ彼女。

当時、新しいフォルムを製造することは、時間もお金もかかるため、

同じベースに様々なデコレーションがされていました。

そんな中で彼女の作品は人々の心をつかみ、豊かにしました。

エステリの作品は女性らしく、多くの花や植物、女性などがモチーフにされています。

彼女の作品がひとつあると、その場の雰囲気がぱっと明るくなりますが、

彼女自身も明るく、親しみやすい素敵な女性だったそうです。

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Raija Uosikkinen/ライヤ・ウオシッキネン(1923-2004)

カレワラ,アラビア

 

エステトムラとともに、アラビアのの装飾黄金時代を築いたのがライヤ・ウオシッキネンです。

彼女はアラビアの食器には比較的少ない人々の生活の様子もたくさんデザインしています。

1950年代、カイフランクに腕を見込まれ、カイのデザインしたBモデルと呼ばれる食器に

たくさんの装飾を施しました。

この頃、アラビア社は伝統的な装飾から、モダンデザインへと移行していきます。

この変革期に大きな役割を果たしたのが彼女でした。

彼女は新しい装飾には自由な発想や、新しい想像力が必要と考えていましたが、

装飾はあくまでフォルムを引き立たせるためのものという謙虚な姿勢を

最後まで崩さず、製作を続けました。

彼女の代表作のひとつにカレワラがあります。

カレワラはフィンランドに古くから伝わる神話を基に作られた叙事詩です。

1976年から1999年まで毎年発売され、計24回にわたって製造されました。

そのデザインを担当したのがライヤでした。

プレートの裏にはフィンランド語、スウェーデン語、英語で描かれているシーンの物語がかかれており、

独特のラインで描かれたカレワラシリーズは、どこか神秘的でノスタルジックな印象で、

今なお人気が高く、コレクターの多い作品となっています。

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Gunvor Olin-Gronqvist/グンヴォル・ウリン‐グロンクヴィスト(1928-2005)

GOG,アラビア

ビンテージのアラビアの作品で名前のあがるシリーズにコスモスがあります。

これをデザインしたのがグンヴォルです。

日本人にはかなり発音しにくい名前でGOGというサインが有名です。

彼女は戦後まもなくアラビアに就職し、

1993年に退職するまで、装飾、フォルムデザインだけでなくアート作品も

数多く手掛け、アラビアを代表するデザイナーとして活躍しました。

彼女の作品といえば、コスモスやフラクタス、コーッキシリーズなどいきいきとした手描きの作品が有名ですが、

1960年~70年代にかけては動物などをかわいらしくあしらった子ども用の食器なども

多数手掛けています。

1976年から実力を認められて、アート部門に参加します。

彼女にとっても植物や動物は愛着の多いモチーフでしたが

特に玉ねぎをモチーフにするのが好きだったそうですよ。

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 Ulla Procope/ウラ・プラコッペ(1921-1968)

現在も高い人気を誇るバレンシアをはじめ、数々のシリーズに採用された

Sモデルを生み出したウラ・プロコッペ。

アラビア,ルスカ,ruska

彼女は絵付師としてアラビア社に入社、その後装飾部門に異動となり

数々の作品を発表します。

彼女の代表作バレンシアシリーズは、1960年に発表されましたが、

2002年までハンドペイントで製作され続けました。

彼女は47歳でこの世を去ってしまいますが、

彼女亡き後もこれらのシリーズは愛され続けました。

そして、一番の功績はやはりルスカでしょう。

ルスカは厚めの磁器でできていて料理や飲み物が冷めにくく、

オーブンの使用可能が可能でした。

さらには、窯入れが1度で済むため経済的にも非常に優れており、

アラビア社で一番売れたシリーズとなりました。

さらにはルスカに使用されたSモデルは、アネモネ、コスモス、フローラ、コーラル、などなど

30種類を超えるシリーズに採用されました。

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